ミャンマー渡航記録3(渡緬記録3)

こんにちは。オフィス謝府礼の阿部です。

今回も前2回に続いて中部ウェルフェアサポート協同組合として、2022年12月に訪れたミャンマー渡航時の記録をしたためています。興味のある方は、DAY1 / DAY2のBLOGもご覧いただければ幸いです。

 

DAY3 2022.12.14

IT技術の進化のおかげで、通信状況さえ良ければ世界中の人と繋がることだって不可能ではない時代。出張先でも通信装置とやる気さえあれば、顧客とのWEBミーティングだってできる。…という訳で現地時間の6:30から一本のミーティングを終え、8:00になると今日のガイドShweさんが迎えに来てくれた。

 

 

今日は病院1件と日本語学校2校の訪問予定。朝一番で訪れた「Punhlainghospital」は前回訪緬した2015年にも訪れた病院だが、このときは病棟内まで立ち入ることはできなかった。しかし今回はたまたま、ガイドのShweさんのいとこがこちらのBoadmemberだというので、コネの好意に甘えて、院内を見学させてもらえる好機を得ることができた。

病院が世界標準であることを証明するJCI(Joint Commission International)を2017年に取得したこの病院は医師数50人(+非常勤医師40人)、看護師200人を要し、ベッド数170床、1日の外来患者数は200~300人という大きな病院である。心臓疾患や周産期、総合診療部門に強みを有し、出産は1日10件程度のお産をとりあげているとのこと。

ミャンマーは政治的問題で若者たちの仕事の機会が奪われているというのがもっぱらの評価であるが、少子化といった問題が顕在化してくるのはまだ当分先の話しなのかもしれない。私の本職は医業コンサルティングなので、今回の渡緬で病院を訪れる機会を得たのは幸いだった。

 

 

▽ミャンマーの教育事情

1時間ほど病院を見学させてもらった後、予定時間を30分以上過ぎて次のアポイント先の日本語学校へ到着。こちらの経営者は平成元年~数年間日本で仕事をしていた方で、現在64歳。数年前に心臓を患い開胸手術をしたあと、「自らの人生はおまけのステージにある」という思いを胸に、若い人たちに日本へ行く機会を提供するために学校を開設したという理念を語ってくれた。

このあともう1件訪れた送り出し機関も同様だったが、いずれの学校も20代前半の若い生徒が非常に多い。この影響の一つに先の軍政権によるクーデターがある。21年2月の政変後ミャンマー国内では非服従運動が拡散したが、医師や教員といった人たちも多くがこの運動に参加した。

時間とともに国内は表面的には平穏を取り戻してはいるが、いまも100%の回復とはなっていないようで、大学で教鞭をとる教師が減少しており事実上大学へ進学しても十分な勉強ができないばかりか、若者たちが職を得る機会も厳しくなっている現状がある。こうした背景もあって、ミャンマーの優秀な人たちがいま、日本をはじめ海外に目を向けているというこの国特有の事情が、彼らのモチベーションを支えているようであった。

 

 

▽家族と離れて暮らすリスクの現実

ところで、今回の旅には本来もう一つの目的が実行されるはずだった。それは、高校時代からの友人の工務店で働いているミャンマー人男性と、出産のため帰国したタイミングでクーデターが発生したために現在離れて暮らすことになってしまった奥さんと子供のために、男性からのお土産を家族に渡す、というもの。

しかし12月上旬、仕事にでてこない男性を友人が部屋まで迎えに行くと、男性は前夜に病気のため布団のなかで息を引き取ってしまっていたため、この役割を果たすことはできなかった。幸いその後、ヤンゴンで暮らす奥さんを見つけることができたのだが、これなどはSNSの力であった。

男性はまだ30代。2歳に満たない子供をその腕に抱くことなく早逝してしまった彼と出会ったのは、本当に偶然としか言えないタイミングだった。なぜなら私が高校時代の友人宅を訪ねたのはおよそ6~7年ぶりのことであり、たまたま話の流れのなかで、今度ミャンマーに行くという話しになり、ウチにミャンマーの人働いているよ…というところから彼と会ったのだが、この話は11月上旬であり、ここから1ヵ月足らずの話しなのである。

結局なんの役にも立つことはできなかったが、SNS上で彼の奥さんを見つけ、連絡をつける契機をみつけられたことだけは、本当に幸いだったと思う。遠く離れた国で家族のために働いていた「Htet myat aung(私たちはテミヤンと呼んでいた)」という友人がいたことを、今後もミャンマーを訪れるたびに思い出すのだとおもう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です