安全神話

こんにちは。オフィス謝府礼の阿部です。

普段は医療従事者として働く私たちも、自分や家族が病気になれば医療を受ける側に廻ります。そんなとき、改めて医療従事者のありがたみを感じることが多くあります。介護施設においても同様で、自ら自宅で介護することができない祖父母、あるいは両親たちの生活を見守り、手伝ってくれている介護職の方たちには、感謝の念が絶えることはありません。

しかし一方で、虐待や悪意のある事件が発生しているのもまた事実です。数にしてみれば、わずかなものであったとしても、普段私たちが安心・信頼しきっているからこそ、不幸な事例が発生したときの反応は過敏にならざるをえないかもしれません。

 

 

▽コミュニケーションの欠如が招く不幸

不幸にして、このような事例が発生してしまう施設にはどのような背景があるのでしょうか。勤務条件、収入、周囲との人間関係、自身の問題etc.

当然、その背景が一つのことに集約されることはなく、複雑な事柄が絡み合ってのことだと理解していますが、一つ言えるのは、コミュニケーションが恒常的に欠如していた可能性が高い状態にあったのではないか、そのように考えています。

 

多くの組織が、トップがいて、部門長がいて、主任がいて、日々のリーダーがいる階層から成っていますが、このいずれかの段階で課題や問題解決すべき事項が誰かに丸投げされているとしたら、その組織はコミュニケーションがとれていない組織だといえます。

進捗を上長が確認する、未達が発生していれば何が阻害要因になっているかを調査し軌道に乗せるようフォローする、あるいは達成後の振り返りを行い評価することを通して、コミュニケーションは成立します。

コミュニケーションとは、頻繁な声掛けや、1on1のミーティング、あるいは身の上話の相談にのるといった余計なお世話的なことだけを指す訳ではないことを、私たちは認識しなければなりません。

 

 

▽おわりに

医療従事者と患者・家族の双方に信頼感があって、はじめて安全な医療や介護は成立します。患者側に不信感があっては、よい医療も介護も提供することは困難になります。

よい医療・介護を提供するためにコミュニケーションは不可欠であり、先人たちによって綿々と行われてきた積み重ねが、医療の安全神話をつくってきたのだと理解しています。

安全は神がかり的につくられる類のものではなく、一人ひとりの努力によって成り立ってきたことを認識し、私たちにはこの財産を次の世代へ繋げていくことが求められてるのではないでしょうか。

 

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