漂流生活の魅力と落とし穴

こんにちは。オフィス謝府礼の阿部です。

「責任とプライド」は両者が自己の内面で競って働くことで良い効果を発揮するのだと思います。どちらかが偏っていると、どこか合点のいかないモヤモヤ感がついてまわる…。最近、住む場所を変えながらリモートワークをするワーケーションという働き方がありますが、ある記事を読んでいてそんなことを考えさせられました。

 

▽漂流という言葉の魅惑

「漂流」ということそのものは、歴史においてとても重要な役割を担ってたと理解しています。民族大移動は人類が定住地をもとめて彷徨った偉大な行為そのものですし、船で難波した漂流者が外国に渡り新たな知見と文化を携え母国に凱旋する、といったロマンが漂流という言葉にはあるように思います。

記事が伝える漂流生活も、会費を払えば全国にある登録地に住む場所を転々としながら移動することができ、こうした生活が送れるのもリモートワークが進んだからという見方をしているものでした。

 

 

 

▽漂流と現実、安息

こうした働き方。羨ましいと思うところはありますし、魅力的な働き方の側面も有していると思います。様々な土地でいろいろな人や文化に出会い、感じる。こうした経験が自分を豊かにしていってくれる、それが旅の醍醐味だと理解しています。

ただ、この働き方では割り振られた仕事(assignment)は当人とチームで達成することができるとして、どこまでチーム内で「影響」を刺激しあいながら目に見えない恩恵(Benefit)を得ることができるかに疑問を感じました。

もっといえば、この環境で損をするのは「力のない人」であり、きっと格差はさらに広がっていくことになるように思います。

私自身転職を繰り返してきた身で、ときには住む場所がなくなるような漂流をしながら現在地にいるわけで、これから先また漂流がはじまるとも限りません。

しかし時間と空間という軸のなかで、やはり苦楽をともにした時間や密度が濃いチームとの経験は忘れがたいものであり、いまを生きる糧になっています。

漂流生活は安住できる場所を探して行われる行動であり、漂流生活を楽しむというのは少し違うのかな…などと考えさせられた記事でした。

リモートワークが定着して新しい生活様式が普及するかもしれない。でもそれは過去の民族大移動の現代版であり、人はどこかに定住することで安息を得てきたのではないかと考えています。

 

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